50%昇給でも、彼は辞めた

あるエンジニアが退職を申し出た。会社はすぐに条件を出した。給与50%アップである。
決して小さい数字ではない。それでも彼は辞めた。CTOとの最後の会話で、彼はこう言ったという。
「今さら何ですか。」
この一言に、金額の話は出てこない。
カウンターオファーが答えている問い
50%という提示は「あなたにはいくらの価値があるか」という問いへの答えだ。ただ、退職を決めた時点の本人は、たいてい別の問いを抱えている。ここで働き続けて、自分は納得できるのか。会社は二つの問いを一つだと思って答えている。
ハーズバーグが1959年に示した二要因理論は、このずれをよく説明する。満足と不満は一本の軸の両端ではなく、別々の軸の上にある。給与や職場環境が足りなければ不満は生まれる。それを埋めても「不満がない」状態に戻るだけで、意欲が湧くわけではない。
数字で見ても同じだ。Judgeらが2010年に92の独立サンプルを統合したメタ分析では、給与水準と仕事満足度の相関は0.15程度、給与そのものへの満足度とでも0.23にとどまった。給与を上げれば給与への不満は減る。仕事そのものへの満足には、あまり届かない。
掛け算のどこかがゼロになっている
ヴルームの期待理論では、人が力を出すかどうかは三つの掛け算で決まる。報酬に魅力があるか。成果を出せば報酬につながると信じられるか。努力すれば成果を出せると思えるか。
どれか一つがゼロなら、全体はゼロになる。
実は、彼の昇給の話はそれまでずっと、意図的かどうかは別として、放置されていた。退職を申し出て初めて、それも50%という形で一気に出てきた。
こうなると、二つ目の項目はとっくにゼロになっている。きちんと成果を出しても、報酬にはつながらない。本人がそう学んだあとに大きな数字が出てきても、「頑張れば報われる」とは結びつかない。むしろ「辞めると言わないと動かない会社だ」という確認になってしまう。「今さら」という言葉は、そこから出てきたのだと私は見ている。
ここで誰かを責めたいわけではない。CTOも人事も、退職の申し出という最も強いシグナルが来て初めて全力で動ける構造の中にいる。問題は個人の判断より、シグナルが届く仕組みの側にあることが多い。
外からの要求を、本人の理由に変えられるか
私は数年前、ダニエル・ピンクの「モチベーション3.0」を支持する短い文章を書いた。自律、熟達、目的。内発的動機は外発的な報酬より強い、という話だ。
今読み返すと、間違ってはいないが、少しきれいすぎると感じている。外発的なものは劣っていて、仕事を好きになれる人だけが本当に頑張れる、と読めてしまう。
ピンクの土台になっているデシとライアンの自己決定理論には、もう一段役に立つ考え方がある。外からの要求は、少しずつ本人の理由に変わっていく。「やらないと叱られる」から「やらないと後ろめたい」へ、「これは必要だと思う」へ、そして「自分がやりたいことだ」へ。同じKPIでも、人によっている段階が違う。
経営が手を入れられるのは、この段階を上げる条件の方だ。自己決定理論は自律性、有能感、関係性の三つを挙げる。東アジアの組織では、私はここに「帰属」を加えて別に見ている。裁量があることと、ここが自分の居場所だと感じられることは、同じではない。
辞めると言われる前にできること
面談で「あなたのモチベーションは何か」と聞いても、ほとんど情報は得られない。聞くなら、過去にいちばん没頭した仕事と、いちばんやる気が出なかった仕事を挙げてもらい、その二つで何が違ったかを聞く。上司は誰だったか。自分で決められる範囲はどれくらいあったか。その仕事を気にかけてくれる人はいたか。周りの人とどれくらい打ち解けていたか。
違いはたいていそこに出てくる。給与が挙がることは、あまりない。
採用面接でも、入社後の1on1でも使える。本人が言葉にした条件が今の職場で欠けていれば、それが退職届より先に届くシグナルになる。給与の相談のように、本人がすでに口にしているシグナルなら、なおさらだ。
50%の昇給を用意できる会社なら、その手前でできることも多かったはずだ。
ただ、どのくらいの頻度で、誰が聞くのがいいのかは、組織の規模で変わる。数十人のチームで回ったやり方が、数百人の組織でそのまま機能するとは、私も思っていない。
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