転勤の内示は断れるのか

金曜の夕方、上司に会議室へ呼ばれて「4月から名古屋で」と告げられる。家に帰って家族の顔を見ながら、これは断れるものなのかと考える。人事の仕事をしていると、この相談はいつも内示から辞令までの短い間にやってくる。
先に私の見立てを書いておく。総合職として採用され、契約に勤務地の限定がないなら、転勤そのものを断り切れる場面は多くない。ただ、内示の段階は交渉の余地がいちばん大きい時期でもあり、2024年4月からは契約書に書かれた「変更の範囲」が話の出発点になった。断れるかどうかより、何を確かめ、いつ話すかで結果が変わることが多い。
内示は命令なのか
内示は、法律に定めのある手続ではない。一般には、正式な辞令の前に本人へ伝える予告であり、業務命令として効力を持つのは辞令のほうだと理解されている。だから内示の場で「少し考えさせてほしい」「家庭の事情を説明したい」と返すこと自体は、命令違反にはあたらない。
有名な東亜ペイント事件でも、流れはこの順番だった。最高裁判所第二小法廷1986年7月14日判決によると、営業職の社員は1973年9月に広島への転勤を打診されて断り、続いて名古屋を提案されてこれも断った。10月30日に名古屋への転勤命令が出て、それにも従わなかったため、翌年1月に懲戒解雇された。判決が処分の理由として扱ったのは、正式な命令を拒んだことのほうだ。
会社の転勤命令が無効になるのはどんなときか
就業規則に転勤の定めがあり、勤務地を限る合意がなければ、会社は本人の個別の同意なしに転勤を命じられる。そのうえで東亜ペイント事件の最高裁は、命令が権利の濫用として無効になる場合を三つ示した。業務上の必要性がないとき、必要性があっても不当な動機・目的によるとき、そして労働者に「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」を負わせるときである。
この基準は、働く側から見るとかなり厳しい。業務上の必要性は「余人をもつては容易に替え難い」ほどの高い必要性に限られず、企業の合理的な運営に役立つなら認められる、と同じ判決は述べている。しかもこの事件の社員には、71歳の母親、保育の仕事に就いたばかりの妻、2歳の娘がいた。それでも最高裁は、不利益は通常甘受すべき程度だと判断した。単身赴任になる、家族が寂しい、という事情だけでは無効にならない、というのが判例の基本線だと受け止めている。
流れを変えてきたのは介護と育児だ。育児・介護休業法26条は、転居を伴う配置の変更で子の養育や家族の介護が難しくなる労働者がいるとき、事業主はその状況に配慮しなければならないと定める(e-Gov法令検索)。転勤そのものを禁じる規定ではないが、本人の状況を把握し、意向を聞き、代わりの手立てを検討したかが問われる。ネスレ日本の事件では、大阪高裁が2006年4月14日、家族の介護を担う社員二人への配転命令を無効とした。さらに2025年10月1日からは、妊娠・出産を申し出た社員や、子が3歳になる前の社員に対し、勤務地を含む両立の意向を個別に聞いて配慮することが事業主の義務になった(厚生労働省)。
2024年4月から、契約書の一行が効いてくる
2024年4月1日以降に結んだ労働契約では、雇入れ直後の就業場所と業務に加えて、その「変更の範囲」を書面で明示することが義務になった。厚生労働省のリーフレットは、変更の範囲を「将来の配置転換などによって変わり得る就業場所・業務の範囲」と説明している(厚生労働省「労働条件明示のルール改正」)。有期契約は更新のたびに明示が要る。一方、それより前から勤めている無期契約の社員について、改めて明示し直す義務はないとQ&Aは整理している。
ここで思い出したいのが、2024年4月26日の最高裁判決(滋賀県社会福祉協議会事件、令和5年(受)第604号)だ。技術職として約18年働いてきた人を総務課へ移した事案で、最高裁は、職種や業務内容を限る合意があるなら、会社は本人の個別の同意なしにその合意に反する配置転換を命じる権限を持たない、と判断した。濫用かどうかを測る前に、そもそも命令する権限がない、という順番である。職種をめぐる事件だが、勤務地を限る合意にも同じ理屈が当てはまると私は読んでいる。
だから労働条件通知書の「就業の場所(変更の範囲)」の欄は、一度は自分の目で読んでおきたい。「会社の定める事業所」とあれば、全国転勤もありうる契約だと考えるのが自然だ。「変更なし」や特定の都市名が書かれていれば、その範囲の外への転勤には本人の同意が要る、と主張できる余地が生まれる。ただ、明示された範囲がそのまま限定合意と扱われるのかは、まだ裁判例が積み上がっていない。ここは私も確信を持てないところで、具体的な判断は専門家に委ねたい。
断ると、実際には何が起きるのか
有効な転勤命令を正当な理由なく拒めば、業務命令違反として懲戒の対象になり、東亜ペイント事件のように懲戒解雇まで進むこともある。もちろん解雇には客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性が要るので、一度の拒否で即座に有効な解雇になるとは限らない。それでも、争えば時間がかかる。労働審判の件数と中身を見た記事でも触れたが、労働審判はおよそ7割が調停で終わる。それでも、申し立てから決着までの数か月、仕事と生活は宙に浮く。
一方で、会社の側も実は拒否を前提に動いている。労働政策研究・研修機構(JILPT)が2016年に行った「企業の転勤の実態に関する調査」では、正社員300人以上の企業1,852社が回答し、そのうち転勤のある1,133社では、家庭の事情で転勤を受けられない社員に「転勤対象からあらかじめ外す」と答えた企業が64.7%、「予定どおり転勤してもらう」は3.2%だった。家族の事情を申し出る仕組みがある企業は83.7%に上る。古い調査で、いまの数字は違うかもしれないが、話を聞く仕組み自体はかなり前からある。
内示から辞令までに確かめること
まず労働条件通知書と就業規則を出してきて、勤務地の欄と転勤の規定を読む。次に、自分の事情を具体的に言葉にする。介護なら誰がどのくらいの頻度で何をしているか、育児なら保育園や学校の事情。人事は「家庭の事情」という言葉だけでは動きにくいが、事実が並ぶと代替案を探しやすくなる。
交渉の材料は、転勤するかしないかの二択に限らない。JILPTの同じ調査では、転勤のある企業のうち転勤時期をずらす企業が40.9%、近くの事業所への異動に切り替える企業が22.9%あった。回答企業全体で見ると、単身赴任手当を毎月支給する企業は64.1%、帰省旅費を出す企業は55.1%だ。時期、期間の目安、手当、帰省の頻度。どれを優先したいかを先に決めておくと、話が具体になる。
断ることが現実的なのは、契約上の範囲の外であるとき、介護や育児で生活が成り立たなくなる事情を示せるとき、あるいは転職も視野に入れて覚悟が決まっているときだと思う。最後の場合は、転勤を受けた自分と断った自分の両方を、転職前に描く四層の自画像のうち「状況」の層に置いて比べてみると、感情だけで決めずに済む。
ここに書いたのは2026年10月時点の一般的な情報で、法的な助言ではない。迷ったら、総合労働相談コーナーや労働基準監督署、弁護士に早めに相談してほしい。
転勤を言い渡されてから考え始めると、どうしても気持ちが先に立つ。住む場所をどこまで会社に預けられるか、その線は内示が来る前に一度引いておきたい。労働条件通知書の「変更の範囲」の欄は、線を引く場所としてちょうどいいと思う。
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