佐藤伸明 Nobu Sato

キャズムは日本にもある:海外SaaSが最初の十社で止まる理由

海外SaaSの日本参入

目次5
  1. キャズムはどこにあるのか
  2. 日本では、溝の右側に誰がいるのか
  3. 主流の日本企業がSaaSを一つ入れるまでに、何を通るのか
  4. 溝の両側で、営業組織は別物になる
  5. どう渡るか

海外のSaaSが日本に入ってくると、一年目はたいていうまくいく。本国と縁のある企業、スタートアップ、新しいものが好きな情報システム部門。十社ほどはこうして決まる。二年目に百社を目標に置き、年末に数えると二十社で、半分は一年目と同じ顔ぶれの延長にいる。営業が怠けたわけではない。最初の十社と次の百社は、別の種類の顧客で、あいだに溝がある。

キャズムはどこにあるのか

アーリーアダプターと主流の顧客のあいだにある。ジェフリー・ムーアが1991年に書いた『キャズム』(Crossing the Chasm)の主張は一つで、新しい技術製品は、先に試す少数の層には売れても、実利で判断する多数の層には同じやり方では売れない、というものだ。2014年に第三版が出て、いまも売れている。溝が埋まっていない証拠だろう。

下敷きはエベレット・ロジャースの普及理論である。ロジャースは採用者を五つに分けた。イノベーター2.5%、アーリーアダプター13.5%、アーリーマジョリティ34%、レイトマジョリティ34%、ラガード16%。ムーアはこの13.5%と34%のあいだに線を引いた。左の人は「可能性」を買う。製品に欠けがあっても賭けてくれる。右の人は「他社が使って問題がなかった」ことを買う。完成した製品、同業の事例、何かあったときに責任を取る相手。欲しいものがまるで違う。

この理論には反論がある。ロジャース本人が、過去の研究にはカテゴリー間の断絶を支持するものはなく、革新性は連続的だと述べている。私はこれを法則としてではなく、使いやすい見取り図として扱っている。ただ、日本市場に当てると、この見取り図は妙によく合う。

日本では、溝の右側に誰がいるのか

主流の日本企業がいる。二年目の目標にある残りの九十社だ。彼らがお金を使っていないわけではない。日本情報システム・ユーザー協会(JUAS)の「企業IT動向調査2026」は、上場およびそれに準ずる957社に聞いている。2025年度のIT予算を前年より増やした企業は52.6%、増減のDI値は43.3ポイントで、計画値としては過去十年で最高だった。

では、その予算はどこへ向かうのか。増加理由の一位は「既存システム・基盤の刷新・更新・増強」で66.3%、「クラウドサービス増加」が45.0%、「AI関連」が36.3%。DXの目的を聞くと、一位は既存ビジネスのコスト削減で36.1%、新規事業やビジネスモデルの再構築は13.5%にとどまる。システム開発では、約七割が内製と外部委託の使い分けを目指すと答えた。既存のSIerとの関係は、これからも続く。

右側の輪郭はこれで描ける。予算は増えている。使い道はまず既存システム。新しいものは、コストが下がるなら。開発の相手は変えない。ムーアの言う実利主義者そのものである。クラウドの利用企業はすでに八割を超え、富士キメラ総研の推計では国内パブリッククラウド市場は2024年度3兆4,444億円、2030年度には6兆2,515億円になる。同じ発表は、大手企業で業務プロセスをシステムの標準機能に合わせる「Fit to Standard」の機運が高まり、SaaSへの移行が進んだとも書いている。右側は買っている。買い方が左側と違うだけだ。

左側の顧客は16%にすぎず、右側の新しい予算は既存システムに向かう

上:ロジャースの普及理論による採用者五分類の構成比(%、Rogers『Diffusion of Innovations』第5版、2003年)。下:上場企業の2025年度IT予算の増加理由とDXの目的(複数回答、%、JUAS「企業IT動向調査2026」、957社)

最初の十社がいる側その他

採用者の分布 溝の左が16%、右が84%
  • イノベーター
    2.5%
  • アーリーアダプター
    13.5%
  • アーリーマジョリティ実利主義者。溝はここから
    34%
  • レイトマジョリティ
    34%
  • ラガード
    16%
溝の右側の予算はまずどこへ 上場企業、2025年度
  • 予算増加の理由既存システムの刷新・更新・増強
    66.3%
  • 予算増加の理由クラウドサービス増加
    45.0%
  • DXの目的既存ビジネスのコスト削減
    36.1%
  • DXの目的新規事業・ビジネスモデル再構築
    13.5%

最初の十社は左に、次の百社は右にいる。右側は買っている。ただし買い方が違う。

図1 ロジャースの分類ではイノベーターとアーリーアダプターの合計は16%で、ムーアはこの16%とアーリーマジョリティ34%のあいだにキャズムを置いた。JUASが2026年に調べた上場企業957社では、2025年度のIT予算増加の理由の一位が既存システムの刷新(66.3%)、DXの目的の一位が既存ビジネスのコスト削減(36.1%)で、新規事業は13.5%だった。

主流の日本企業がSaaSを一つ入れるまでに、何を通るのか

ふつう四つの関門を通り、九か月から十八か月かかる。一つ目は現場で、誰かが言い出し、社内で理由を説明できなければ始まらない。二つ目は情報システム部門のセキュリティ審査で、数十から数百項目のチェックシートに、データの保管場所、アクセス権、事故時の連絡手順を一つずつ答える。三つ目は購買と法務で、日本語の契約書、SLA、解約条項、データの帰属を見る。四つ目が稟議で、判子が順番に押されていく。初年度予算の記事で、中堅企業以上は初回訪問から契約まで九〜十八か月と書いたが、SaaSも例外ではない。

海外から見ると、これは「日本企業は慎重だ」という話になりがちだ。私はそう感じていない。ムーアの言葉を借りれば実利主義で、自分が責任を負える形でしか買わない。それだけのことだ。

流れ図に書かれていない関門がもう一つある。既存のSIerである。日本の多くの企業のシステムはSIerが作り、SIerが保守している。新しいSaaSは、SIerが売るか、SIerが受け入れるか、SIerが断るかのどれかになる。百年企業の多い国で、新参者が顧客を動かしにくいのは、ソフトウェアでも同じだ。

公開されている事例を二つ見ておく。Slackは2017年11月に日本語版を出し、2019年1月にはSlack自身が、日本は世界で二番目に大きい市場だと書いている。日本で名前を挙げている顧客には、メルカリやSansanのような典型的な溝の左側の会社もあれば、豊橋に本社を置く従業員一万六千人超の武蔵精密工業のように、2018年に全社導入した製造業、溝の右側もある。その後Slackは、2020年第1四半期に日本国内のデータリージョンを設ける計画を発表した。バイトダンスのLarkも同じ道にいる。Lark Japanはデータをすべて国内サーバに置き、2025年3月には上場企業のNEXYZ.Groupを「プラチナパートナー」にした。日本企業が日本企業に売る形である。両社がやったのはムーアの言う「ホールプロダクト」で、製品の外側にある日本語、国内データ、パートナー、導入支援を一つずつ埋める作業だ。

溝の両側で、営業組織は別物になる

左側の営業は、創業者か本国から来た人が直接売る。製品を見せて、話が合えば決まる。右側には別の顔ぶれが要る。エンタープライズ営業は、日本の大企業で売った経験があり、稟議の呼吸を知っていて、顧客が社内に出す資料を代わりに書ける人。パートナー担当は、SIerと販売代理店を専任で見る人。プリセールスは、チェックシートに答え、技術説明書を書く人。カスタマーサクセスは、導入と研修と一年目の更新を見る人。この四つの職位は、左側では一つも要らず、右側では一つも欠かせない。

採用より難しい条件がもう一つある。日本法人がサービス水準とパートナー条件を決められることだ。右側の顧客は「問題が起きたとき日本側で決められるのか」と聞く。「本社に確認します」と答えた時点で、稟議は止まる。何を日本で決め、何を本社で決めるかは、製品、営業、組織の順に決める理由で整理した。

よく見る失敗の型は決まっている。左側で一番売った人を日本法人の責任者にする。これは別に書いたが、その人の得意な売り方は右側に存在しない。左側の受注速度で右側の四半期KPIを置く。半年でチームが崩れる。大企業、中堅、小規模の三層に一人ずつ営業を置いて同時に攻める。お金と注意が薄まり、どの層も越えられない。最初の二年は一層に絞るという原則は、SaaSでいちばん効く。

海外SaaSの日本法人から「一人目のエンタープライズ営業」として声がかかった人にも、同じ見取り図が使える。確かめたいのは、その会社がいま溝のどちら側にいるか、渡る準備にいくら出す気があるかだ。左側の成功を右側の証拠として語る会社は、渡る費用を見積もっていないことが多い。

どう渡るか

ムーアの処方は一つしかない。広げないこと。一つの業種を選び、その業種の切実な課題をホールプロダクトで完全に解き、参照顧客になってくれる主流企業を一社か二社つかみ、その事例で隣の業種に進む。ボウリングの一本目のピンだと彼は言う。

日本に当てた私の意見はこうだ。最初の二年は一層、一業種。本国と縁のある顧客は売上として大切にし、証拠としては数えない。主流の日本企業が買う証明にはならないからだ。最初の参照顧客には値引きをしてもよいが、事例と社名の公開を条件にする。日本の営業に置く最初のKPIは受注数ではない。主流企業一社の稟議の経路図、誰が起案し、誰が審査し、誰が決裁し、それぞれ何週間かかるかを描き切ることだ。この一枚がなければ、次の百社への道がない。

自分への注意も書いておく。ロジャースの反論は気になっていて、日本の溝は線というより坂で、どこまで登れば渡ったことになるのか、私には言えない。それから、製品とは関係のない話が一つある。中国系のSaaSは、チェックシートで数問多く聞かれる。データはどの国にあるか、準拠法はどこか、親会社は誰か。それが懸念なのか口実なのかは顧客次第だが、稟議の上では答えを用意しておくべき問いである。


日本市場での立ち上げについて、三言語で書いています。